夜も朝も涼しい。クーラー故障中ゆえ非常にありがたい(^^)。

今日も交換会へ行くことに決めていた。月曜日で大量の発送荷物を荷造りした後、なんとか時間に間に合ったので12時過ぎの電車に乗った。今日は中央市会特選市。2フロアに溢れるほど本が並んでいた。壮観な光景だった。

行き帰りの電車で今読んでいる本は「ブ」で買った「写真とことば」と云う本で、飯沢耕太郎氏の編著。氏によってセレクトされた写真家25人の文章と、それに対する飯沢氏の解説で構成されている。写真家の文章は、時に叙情的だったり、物凄く難解だったりするが、氏の時代背景まで含めた解説のおかげで作家の言わんとすることは一応理解できる。今日は半分読んだが、その中で印象的だったのは土門拳氏の文章だ。ちょうど対比出来るように木村伊兵衛氏の文章はその次に並べられている。

土門氏曰く、絶対非演出の絶対スナップを基本的方法とするリアリズム写真だけが社会的現実そのものに直結する可能性としてここにある、とし、サロン・ピクチュアたる”演出写真”は下らない道楽と切り捨てる(^^;。かなり尖がった主張だと思う。だが、この文章が書かれた1953年と現代とでは何もかもが違う。当時の空気がわからない以上、この主張が行き過ぎかどうかの判断は出来ない。飯沢氏は土門氏のリアリズム写真に至った経緯がわかる、と冷静に受け止めている。未だ至るところに戦後が残っていた時、写真家として立ち向かうべき問題は何か、と自分を先鋭化させていった土門氏の溢れる想いは充分に伝わってくる文章だ。

木村伊兵衛氏の文章はライカについて。写真とは絵画と異なるものであり、自然を切りとるワクを決め瞬間をつかまなくてはならない、とする氏の写真観が、ライカを持つことで実現できる、とする。大判カメラでは撮影に制限があるが、小型判のライカなら露光時間、絞りなどの制約が少なくなるため、その瞬間に対応しやすい。
流動的である”瞬間”にどう立ち会うか、が、氏の写真の根幹で、迎え撃つための最高の道具が氏にとってはライカだった。

突き詰める土門氏。流れに対応する木村氏。両者の写真観の違いは端的に作品に現れているが、こうして文章を対比させてもらうとより納得できる。
・・・それにしても、土門氏の文章の激烈なこと(^^;。他人はおろか自身にも絶対に妥協はしない・許さないという考えが良くわかる。こんなに自分を追い込めたらさぞや辛いだろうに・・・。
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